05.たとえば、の、話


「ごめんな〜スコール。ちょっと待っててな」
大人はそう告げると、うつむく子どもの頭を雑な仕草で撫でた。逆の手にある携帯は病院内のため電源を落としたままだ。
「大丈夫だよなっ」
しゃがみこみ、子どもと同じ目線になって歯を見せ笑う。その視線が交わることはなかったけれど、大人は特に気にした様子もなく、もう一度頭を撫でてから足早に出口へと向かった。
子どもは大人が背を向けたあとゆっくりと顔を上げ、後姿が角を曲がるまでずっと目で追っていたけれど、それに気づくものはいなかった。
(……ひとりで、へいき)
巻かれた包帯のせいで重く感じる左手。重心がこころなし傾いている気すらする。
大病院の待合室はたくさんの大人がひそやかに話す声にあふれていて、その静かな喧噪を割るように時折番号や名前が看護士によって告げられている。
席は僅かながら空いていたけれど、そのどれもが人と人とに挟まれていて、座りやすい席で空いている場所などどこにもなかった。
「ちょっとごめんね」
カラカラと機材を運ぶ看護士の声に子どもは場所を譲る。人の行きかう通路側は、立っているには邪魔になる。
大人の間をぬって人に挟まれた席に座るぐらいなら、一人で壁に寄り掛かっていようと、そう思った。

「なー。お父さんかお母さん待ってんのか?」

突如子どもの目の前に大きな目が迫ってきた。
びくん、とわかりやすく肩を跳ねさせて足が止まる。
「ごめん、驚かせたな。看護士のバッツ、バッツ・クラウザー」
この病院の看護士ならば誰もがつけている、顔写真入りの身分証を胸ポケットを引っ張って見せる。
子どもは写真と目の前の顔を見比べ、小さく頷いた。
(迷子じゃない)
視線は合わせず、少し窮屈な靴のつま先を見つめた。視界には自分のつま先とかろうじて見える看護士のつま先。それが不意に、増える。
しゃがみこみ、膝に片肘をついて顔を支える。上を向く顔は子どもに照準を合わせていた。
「左手、どうしたんだ?」
ゆっくりとした仕草で重たい左手を軽く掬い上げる。痛いのか、痛くないのか、頬が動く様子を眺めながら。子どもの整った、しかし感情を窺わせない頬は微動だにせず、安心して右手で包み込む。
大人の手で簡単につつみ込めた左手を、親指で撫ぜる。それは布に阻まれて感覚を与えなかったけれど、とても優しい仕草だった。
「腕まで包帯して…大きい怪我だったのか?」
「………べつに」
「お父さんかお母さんは一緒じゃないのか?」
「お母さん、は、いない」
「あー…ごめんな。お父さんは?」
「外。おしごとの電話」
「そっか。待ってるんだ」
話しながらも親指は動きを止めない。子どもの視線は指の動きをぼんやりと追っているようだった。
片親を亡くしていることを言わせてしまった罪悪感に、左手で生身の右手に触れた。そうしたのはただの勘のようなものだった。ごめんと言うより、伝わればいいと思ったのだ。
「名前、教えてくれよ」
冷たいかもしれないと思った手は、子どもらしい温かさで安心した。
つつみ込んで、右手と同じように親指で甲を撫でる。
「………スコール」
「そっか。はじめまして、スコール」
子どもとの接し方なんて知らなかった。バッツは小児科の担当ではない。だからバッツの中では一般的と言える挨拶をしてみたのだ。
視線は合わず、ただしばらくの間をおいて、頭上で小さくはじめましてと声が聞こえた。
スコールの呼ぶ自分の名前は意外と可愛らしい響きで、笑いをこらえるのが大変だった。

この子どもに声をかけてしまったのは、目をひいたから。遠くを見る目がなぜだか放っておけず、仕事の手が空いたのをいいことに席を離れてここまで来てしまった。
自分の勘には、絶対の自信があった。
「な、スコール。痛かったら痛いって言っちゃえよ」
「………っ、」
初めて見るスコールの目は、まるで泣いているような蒼だった。
呼吸が止まる、思いがした。
何か言おうと開いた口は、言葉を告げられず震えている。
「いたい?」
バッツは自分の声のあまりの小ささに驚いた。
スコールははくはくと喘ぎ、けれど声には出せず、頷くことすらできなかった。けれど、あと少しだと思ったのだ。
それなのに、遠くから名を呼ぶ声がする。
「スコール、お待たせ!!」
大人はしゃがみこむと子どもの頭を労わるように撫でた。
バッツはその目が、先ほどの潤んだものから冷えた青へと変わるのを見た。
「あの」
「ん?あぁ、すみません。少しの間だと思い、ここで待っていてもらったんです」
「いえ…お父様ですか?」
「…………はい」
若干間を開けて、けれどにこやかに彼は肯定した。子どももおとなしく会話を聞いている。
大人は子どもが何か粗相をしたとは微塵も思っていないようだった。実際、それは間違いではないのだ。悪さをしたわけでも、迷子になっているわけでもない。何も間違っていない。
不自然なことなど、なにもないはずだ。
「レオンハートさま。お待たせいたしました。レオンハートさま」
「あぁ、ちょうど良かったな。この子の相手をして下さってありがとうございました。呼ばれたので、これで失礼します」
ぺこり、と親子揃ってお辞儀をして会計へと向かう。会話を切り上げられた、と思うのはなぜだろうか。
遠ざかる子どもは小さな肩を抱かれて、右手は所在なさげに揺れていた。
不思議な親子だと、そう思った。
「スコール・レオンハート、かぁ」
受付に戻り、調べたデータによれば次の通院は1週間後。その時はちゃんと、痛いと言わせようと思った。
妙に気になる父親については、その後でいい。
「バッツ、何かいいことあった?」
「んー?ちょっとこれから、な」










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