残り香


エスタ大統領官邸、通常ラグナが勤務している一室に、常にはないモニターが設置されていた。今は無人の室内では明かりが灯されたまま、モニターも電源が落とされないまま液晶画面が光を放っている。
外部からの訪問を示すランプと耳障りでない程度の音量で呼び出し音が鳴るが、応えるものはなく。数秒後にはシュンと軽やかな音を立てて扉が開かれた。許しなく大統領の執務室に入ることのできる限られた人物、キロスはその一人である。
彼は室内に足を踏み入れるとまずデスクに目をやり、次にぐるりと漆黒の瞳であたりを見渡した。予想に違わず無人であることを確認すると軽く息を吐き出し、真っ直ぐにデスクに足を向ける。新参者のモニターに迷うことなく手を伸ばし、自分の方へと向きを変えた。
モニターは四分割され、ある部屋の様子を克明に伝えている。
全体像が把握できるのは右上の画面。寝室として作られた部屋らしくベッドが大半を占めている。左上の画面はサイドデスクの上の方からベッドで休む人物を映している。今は背けられている顔が映るのは左下の画面。スコールの顔がはっきりと映っている。目を閉じ眠る姿は安らかとは言い難く、寝苦しそうだ。最後の一つは寝室の扉真上からの映像であり、室内に入ろうとする人物を監視するためのものであった。そこに今、人影が現れる。
キロスが探し、本来ならばこの場で政務を執り行っているはずのエスタ大統領の姿がモニターに映っている。手に持っている氷水の入れられたボウルとタオルまではっきりと見て取れた。

たまった休暇を消化すべくエスタに強制送還されたスコールは、昨夜から風邪を引いていた。そこで取り付けられたのが、このカメラである。
ラグナは心配だからと正当性を主張するが、その割に医師が診察を終えて以降人を寄せ付けることはなく、カメラの存在をスコールに告げてもいない。
心配だというのならばキロスとウォードが代って様子を見にいくことも可能だし、看護婦をつけることもラグナの予定に「看病」という時間を入れることもできるのだ。実際キロスはこれらをラグナに提案している。
しかしラグナはそれを笑ってはぐらかし、デスクにモニターを設置した。
大統領が無断で席を外すのは、これが今日2回目である。
1度目はスポーツドリンクをサイドデスクに置き、10分ほどであろうか、頭をゆっくりと撫でていた。スコールは深い眠りについていたらしく、微動だにせずただ呼吸に合わせて布団が上下していた。
その映像を思い返し、水分はとったのだろうかとキロスが左上の画面に目をやれば、先ほどは満たされていたグラスが空になっているのが確認できた。ボトルに残りが入っていたが、それは2時間程前に見た時から変化はなかった。
そして今、入室したラグナはサイドデスクに持っていたものを置くと空のグラスにボトルの飲料を注ぎ足した。次いでベッドに向き直ると背けられた顔をに手を伸ばし、反対の手を横たわる身体の下に潜り込ませてゆっくりと仰向けにする。
ミュートに切り替えられたモニターからは何の音も伝わってはこないが、キロスは男の甘い表情を見ると肩を竦め、モニターを元の位置へと戻した。
手にしたままの書類を置き、デスクに備え付けのメモにペンを走らせる。
「戻り次第連絡すること」
そこで一旦ペンを置き、書類の締切と彼と息子の食事について書こうか悩む。数秒の間をあけるとそのままペンを戻し、退室した。大統領にはメモよりも直接伝えた方が早いと諦めたのだ。

再び無人となった室内でモニターが主の様子を追っている。
ラグナはボウルにタオルを浸し、氷水をかき分けてちゃぷちゃぷと濡らす。きゅ、と絞ると手にかかった水分もタオルに含ませた。
先ほど天井を向くように寝返らせたスコールの顔。額にかかる前髪をかきわけ、傷跡を露わにする。不愉快そうに一瞬前を顰めると、身体を倒して傷跡に口づけた。傷の端から端まで、万遍なく。最後につ、と指先でなぞるとようやく本来の目的であった濡れタオルを傷の上に置いた。
スコールは行為に気づかず、昏々と眠っている。見つめるラグナの表情は甘い。父親が息子に向けるには、甘すぎる笑みだった。
最後にスコールの耳の後ろあたりに己の手首を近づけ、こすり付ける。おまけのように耳朶をくすぐれば、さすがにスコールも息を漏らした。
むずがる仕草にラグナは小さく笑い、布団を直すとまるで幼い子どもにするかのようにぽんぽんと胸のあたりを軽く叩いてから背を向けた。

「あ、キロス?オレオレ。うん。締切11:00って……わーったよ。ベキュウテキすみやかに、やればいーんだろ?」
執務室に戻ったラグナがまずしたことは、モニターを確認することだった。相変わらずスコールは眠り続け、額のタオルもずれていなかった。変わりない様子に満足したラグナはようやくキロスのメモに目をとめ、連絡したのだ。
「……なんだよ。溜息つきやがって」
クリップでまとめられた書類をバラしざっと目を通す。優秀な補佐官は書類の整理も完璧だ。時計を確認し、間に合うなとペンをとる。
「昼食?片手で食えるもんならなんでも。あとはスコールにゼリーとか果物とか持っていきたいからさ、なんか用意してくれよ。……うん、あんがと」
モニターのスコールに笑みを浮かべると、ラグナは受話器を置いて書類と向き合った。

ペンを走らせる音だけが室内に響いては消え、また響く。集中するラグナの横顔は真剣で、普段の軽い笑顔とはまるで別人だ。はじめてスコールがその落差を目の当たりにしたときはひどく胡散臭そうな顔をしたものだった。
それをラグナはゆっくりと、慣れさせた。今ではスコールも仕事の時は真面目に取り組むことができると理解している。ラグナの意図した通りに。

丁度書類をまとめ終わったとき、入室許可を求めるランプが点滅した。扉前の様子を映すモニターをセキュリテイ上一瞥し、馴染みある黒髪を認めると無言で開錠した。
「おや、今度はいたね」
「キロスくん。今は勤務時間だよ?そりゃあいるさ」
おどけて肩を竦める大統領に補佐官は何も答えず近づいた。
「時間には少し早いが、書類はできたかい?」
「カンペキだぜ」
「では昼食とスコールくん用の食事だよ」
書類とトレーを交換し、キロスは出来上がったばかりの書類を捲る。校正が必要なのはいつものことなので触れることはせず、その場でできる限りの内容の確認、疑問点について大統領に問う。そこで問題ないことが確認できれば午前の執務は終了である。
「ではこの通り進めよう」
「おう。よろしくな」
「午後はどうする?差し迫った案件はないが」
「んーまだ熱下がんねぇし、いつも通りでいいさ。後に回すより先に片付けておきたい」
「了解した。必要なものがあったら呼んでくれたまえ」
「わかった」
キロスが退出前に振り返ってデスクを見れば、サンドイッチ片手にラグナはモニターに集中していた。見られていることに気づいていないのか、気づいていて気にしていないのか、恐らく後者だと断じてキロスは苦笑する。
これほどあからさまに気にしているのに決して休みはしないのは、ラグナが仕事熱心だからではない。なぜ一日傍にいないのか。ラグナの愛情はキロスにとって理解しがたいが、それと友情や信頼は分けて考えるべきである。わかったふりをするくらいならば切り離して接するべきだという己の信条に従い、キロスは無言で部屋を辞した。

ラグナが見つめるモニター内、眠り続けていたスコールが起き出したのか、もぞもぞと布団が蠢いている。そのまま見守れば布団から腕が伸び、顔に当てられるとタオルを持ち上げた。しばらくタオルを見続けていたが、やがてむくりと起き上がる。
すん、と鼻を鳴らし、億劫そうにあたりを見渡した。誰もいないことに小首をかしげ、またタオルを見てから顔を左右にゆっくりと振る。
その様子にラグナの浮かべた笑みといったら。
見られていることに気づかないスコールは、サイドデスクに増えた品にようやく目を止めた。満たされたグラスと溶けきらなかった氷が浮かぶボウル。
「きて、たのか」
常から低い声は喉を傷めているせいで掠れている。それでもどこにマイクが仕込まれているのか、はっきりとラグナのところまで届いた。
わかりきっているのに、そこにラグナがいないかと部屋中を視線で探す姿が幼い子どものようだ。やはり誰もいないと思い知ると、ぎゅ、と目を瞑り、呼吸する。
その仕草にラグナの笑みがますます深まる。モニターからは感じられないが、恐らくスコールが感じているのは、先ほど己が残したフレグランスのはずだ。仕事の時に必ずつけるその香を、時折仕事と称してエスタに呼び寄せるSeeDに覚えさせたのはラグナ自身である。
「いつ、きたんだ……?」
視線を落とし呟く姿は、なぜ今いないと拗ねているようにしか見えなかった。
手にしたタオルをボウルに浸し、グラスの飲料を口にする。喉が渇いているだろうに、両手でしっかりと持って一口ずつ、ゆっくりと飲み込む。時間をかけてグラスを空にしたものの、先ほど浸したタオルはそのままにスコールは横向きに布団にもぐりこんだ。
そこまで見るとラグナは笑いを堪えきれず、くくっと声を漏らした。
「かっわいいなぁ」
次にラグナが部屋を訪れるのは、スコールの眠りが深くなってから。
用意させた果物をサイドデスクに置き、ボウルには氷を足して冷やしたタオルを再びスコールの額にのせるのだろう。そしてまた、香りだけを残していく。










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