「ルルーシュ」
低く甘い声音でそう呼ばれ、もぞり、と畳に投げ出された白く細い四肢の持ち主はゆったりと身じろぎ一つで返事とした。
「ルルーシュ」
再度、繰り返される中に含まれるのは苦笑。
「これから、内裏へ上がらなきゃいけないんだけど」
瞬間、ばっと緋の衣を翻し、ルルーシュは起き上がった。
幾重にも重ねられた布は細かな織りの一級品は無造作に着られたまま下敷きになっていたため乱れている。
女人が着るそれ。しかし発せられた声は、紛れもなく青年のもの。
「内裏?」
「おはよう、ルルーシュ」
「行くのか?」
「ルルーシュ。お、は、よ、う」
ルルーシュの詰問には答えず、白衣を纏い烏帽子をつけた青年はにこやかに繰り返す。
転寝であろうと、起き掛けには挨拶が必要。例えもう日が高く上っていようとも。
「………おはよう、朱雀」
「うん、おはよう。僕はこれから内裏に上がるね。申の刻頃には帰れると思う。咲世子がいるし、結界も張ってあるから大丈夫だと思うけど」
「大丈夫だ!」
「うん。だけど、気をつけてね」
「万が一僕以外の誰かに見つかって、“退治”されないように」
くすりと悪戯に微笑むのは心配からではなくこの場に彼を繋ぎとめておくための呪い。
枢木朱雀。天才と呼ばれる、年若き陰陽師である。
鳥の鳥籠
「枢木朱雀。深泥池に現れし妖かしを退けよ」
「はっ」
仰々しい言葉遣いにも、頭を垂れる人の群れにも、後ろ指を刺す無能共にも、朱雀は辟易していた。
人々とは違う髪の色と目の色。加えて陰陽師としての実力。
狐の子どもに始まり、災厄を運ぶ子どもと悪口の格好の餌食となる容姿は、今更変えられるわけもないが溜息をつく程度には心的負担となる。
親しい友人など出来るわけもなく、強いて言うならば師匠たる藤堂がいるが甘えられるわけもない。
人間は嫌いだった。自分も含めて。
他人の目には映らぬ妖かしが好きだ。人よりも余程。
しかし人に害を為すならば、多少懲らしめてやることは職業上仕方のないことだ。
場所を移させるか、力を奪い弱体化させるか。
自分の立ち位置は常にはっきりしないと朱雀は思う。いっそ本当に狐の子ならば、吹っ切ることもできたのだろうか。
「朱雀」
自嘲気味に口角を上げたとことでかけられた声は、陰陽師を束ねる藤堂のもの。
「はい」
「深泥池に向かうと聞いた」
「はい。妖かし退治の任を命ぜられました」
「そうか」
「何か、気になることでも?」
朱雀の実力を誰よりも知る藤堂が普段仕事に向かう朱雀にかける言葉は、その大半が依頼主の情報であるなり「いってこい」との声かけであったりと、軽いものばかりである。
もちろん、もらえると嬉しいものであるが、今日のような、歯に物が詰まったような言い方は珍しい。
「師匠?何か…」
「………いや、西から不穏な気配入ってきたとの知らせがある。離れているが、充分に気をつけていけ」
「西から…ですか。ありがとうございます。肝に命じます」
一礼して門を抜ける。
西からの妖かし。
藤堂の言葉は牛車に乗る朱雀の頬を緩ませた。
「僕でも勝てない相手かな?」
壊してくれれば良いのに。
漠然と浮かぶ言葉で願う対象は、朱雀を取り巻く全てのものか、はたまた朱雀自身か。
判然としない程、執着できるものは見当たらなかった。
揺られながら見る景色はいつも変わらない。
そう、とても、とても退屈していたんだ。
望んだのは、変化。
深泥池は洛北、貴船神社のすぐ側に位置する。
牛車に揺られながら、遠いなと小さくあくびを一つ。
ゆらゆらと揺れる牛車は慣れれば心地よい。
がくんっ
「着いたかな」
春ならば桜が美しい。
夜ならばさしずめ月。
「さて、騒ぎの主は、僕と仲良くしてくれるかな?」
取り出したのは酒。
杯に傾け、月見酒としゃれ込む。
「楽器もあればよかったかな。それとも何か詠もうか?」
瞼を閉じる。酒の香りを楽しむかのように。
「ねぇ、君は何が好き?」
一言、見えざる相手に問いかけた朱雀は眼も開かずに沈黙を守った。
傾けられない杯。ぴくりとも動かない身体。
これは、根競べだ。
しびれを切らしたのは、相手が先だった。
「…俺が、見えるのか?」
「君がそう望めばね。目を開けても?」
かかった、と内心で笑むが、表面は穏やかなまま問う。
返事はない。代わりに、空気が揺らいだ。
それを了承と取った朱雀はゆっくりと、眼を開く。
ひゅぅっ
思わず飲み込んだ息が鳴る。
目の前にいたのは、声の主。
「君は、一体」
声の主は朱雀にとって初めてみる容姿の妖しだった。
人だ。これは妖しではなく人だと思えるほど、人と瓜二つの姿。
違うのは、気配と何より人にあらざる美しさ。
「…俺が、見えるのか?―――よかった」
瞬きするのも惜しいと、息すら止めて見つめてしまう中、疲れた声音の妖しはそう言葉を落とすと、かくんっとまるで糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「君!?」
反射で抱きとめてかかった負荷は、予想以上に軽い。
ぐったりと腕の中で脱力する妖しに、途方に暮れた。
それは大抵のことは力半分でもできてしまう朱雀にとっては久しぶりのことで、思わず、笑いがこみ上げてくる。
「くっ…ははっ。あははははっ」
笑うことすら久しぶりで、明日は筋肉痛になるんじゃないかと頭の隅で考える。
同時に、この妖しは自分が何者かもよくわからず、また力をほとんど失っているとも。
「笑わせてくれたお礼に、我が家にご招待致しましょう」
ひょい、っと抱き上げ、改めて服装に目を向ければ、女物の着物。それも、着方がわかりません、と言っているような適当な着方。
思い出す妖しの髪はこの国の誰もが持つ黒だったが、瞳は紫だった。
「君は、西からのお客さん、かな?」
楽しみだ。期待に頬が緩む。
まずは屋敷に結界を張ろう。今までの比ではない、幾重にも厳重に、強力にした結界を。
これまでの結界は、簡素なものだった。それは朱雀が退屈していたから。呪えるものならば呪ってみろと言わんばかりの結界。
それを強力なものに変える理由は、朱雀の腕の中。気力も力も使い果たした異国の妖し。
「君は僕を変えてくれるかもしれないね」
彼が目覚めたら、名乗って、名前を聞いて、どうしたいか聞いてみよう。
何もなかったら、まず着物の着方から教えようか。
腕の中、感じる温もりはほとんどないといっていい程の低温が高揚した気持ちには丁度いい。
ぬるま湯なんていらないと、朱雀は薄く笑って牛車に乗り込んだ。
後から思い返せば、もう、この時には捕まっていたのだと思う。
内裏での会話は相変わらず下らない。ルルーシュとの出会いを思い出し、待っている彼を思い出すことで朱雀は時間を潰す。
時間はあっという間に過ぎるが、頬が緩まないように気をつけるのが大変だった。
今宵もまた妖し退治。
ルルーシュも連れて行こうかと考えながら砂利を踏めば、歩み寄る人影があった。
「朱雀」
「お久しぶりです、師匠。いかがいたしました?」
「いや。………いや、そうだな。」
笑顔で挨拶をする朱雀に、藤堂は奥歯にものが詰まったような返答を返すしかない。
藤堂は朱雀の変化を気にかけていた。
何かが違うのだ。妖かし退治を命じられる前と、今とでは。
さながら、魔性に魅入られたかのように。
問題は、その変化をはっきりと捕らえられない上に、朱雀の態度に非の打ち所がないことだ。
魔性に魅入られたのならば、もっと変化は顕著なはずだ。
何かが違う。けれど何かがわからない。
だから藤堂は、教え子に一番可能性の高い危惧を示す。
「囚われるなよ?」
それは己の力にかはたまた朱雀の変容の原因にか。
真っ直ぐに朱雀を見抜く藤堂に、しかし朱雀は底の見えない笑みで返した。
「ご心配、ありがとうございます」
ゆらゆら ゆらゆら
牛車に揺られて帰るのは、鳥籠の中。綺麗な華を閉じ込めるための檻。
ぎしっ
降り立った深紅の鳥は翼を広げる。籠を覆い隠すため。
華を誰にも見せないように。華に己しか見せないように。
囚われたのはどちらかなんて、もう、関係ない。