神さまの名前


もう大丈夫、私の愛しい子。この目は神さまの祝福を受けたのよ。



父の顔はもう記憶にない。母の声ももう遠く、見知らぬ土地に連れてこられた時には覚えていたけれど、いつの間にかその声もシンドバッドやジャーファルの声で聞こえるようになり、時にはドラコーンやヒナホホの声になった。
それ以外の言葉は覚えていない。父の名も、母の名も、いたかもしれない兄弟や同じところに住んでいた人々のことも、何も。
マスルールはそれを不幸だと思ったことはなかった。シンドバッドは痛ましそうに顔を歪め、呼吸が苦しくなるほどに抱きしめてくれたけれど。
あの時、シンドバッドの腕の隙間から見たジャーファルは、彼の心痛などまるで理解できないとでもいうかのように感情の籠らない漆黒の目をしていた。シンドバッドよりもよほどジャーファルの考えのほうが理解できると思ったものだ。
抱きしめられる理由など、わからなかった。

それから少し、背が伸びて筋肉がついた頃、まだその時は母の声を覚えていたと思う。
オアシスの街に泊まった晩に、ジャーファルが母の言葉を使ってマスルールのアイラインをなぞった。
「どうした?ジャーファル」
驚きで固まるマスルールに代わり問うシンドバッドに、指にペンダコのできたジャーファルは優しくわらった。
「ファナリスに関する書を見つけました。その本によると、ファナリスのアイラインが濃くくっきりとしているのは、幼少の頃に刺青を入れるからだといいます。狩猟をする時に目に光が反射して気づかれないように、標的を定めやすいように、神さまが祝福を授けた、と」
「……そうか」
静かに頷いたシンドバッドは、一呼吸開けてがばりとマスルールとジャーファルをまとめて抱きしめた。

「もう大丈夫だ、俺の愛しい子たち」

父の顔も母の声も覚えていないけれど、かえりたいと、思った。
同時に、この目が父と母と神からの愛だと言うならば、教えてくれたシンドバッドとジャーファルを狙う獲物は全て、自分が狩ろうと思った。



常人には捕えきれないスピードでモルジアナの成長途中の脚が顔面目掛けて繰り出される。
しかし同じファナリスであるマスルールの目には、その動きがはっきりと見えていた。左腕でガードし、力任せに払えばモルジアナの重心はバランスを崩し、左手が地面につく。右脚でその手を払うと同時に、モルジアナの左手を掴んで持ち上げた。
マスルールと視線を合わせたモルジアナは、あまりに早い休憩と中途半端な状態に首を傾げる。
無言のままマスルールは大きな木の根元に腰掛け、脚の間にモルジアナを下ろす。
「あの、」
「モルジアナ。神の名を覚えているか?」
マスルールは覚えていない。母の言葉は神さまとしか記憶になく、ジャーファルの読んだ本にも神の記述はその一文しかなく、名前までは載っていなかったという。
名が知りたかったわけではない。知りたかったのは、モルジアナが父や母のことを覚えているかだ。なのに言葉にしたらそんなそっけないものになってしまった。
「神さま、ですか?いいえ、知りません」
同じ種族だからだろうか、言葉にせずとも言葉が足らなくとも、モルジアナと意志を交わすことは息をするように簡単で当たり前のことだったが、今はじめて上手くいっていないと感じた。
「……父や母のことを覚えているか?」
言葉を改めれば、今度は雄弁に覚えていないと伝わる。

モルジアナは、愛の言葉すら記憶にない。
見知らぬ土地、見知らぬ人、振るわれる暴力と付けられた枷に痛む夜を越す言葉を持たなかったのだ。
「マスルール、さん?」
気づいたらモルジアナを胸に抱きしめていた。
知らないのなら、教えてやらねばならない。モルジアナの目は間違いなく自分と同じ、祝福を受けている。
「あの」
腕の力を緩め、モルジアナと視線を合わせる。あの少し砂っぽい部屋でジャーファルは刺青をなぞってくれた。
意識して力を抑え、触れる。少し目の端が跳ねるように入れられた刺青を。

「もう大丈夫だ、俺の愛しい子。この目は神さまの祝福を受けた」

反対側も同じように、辿り終えたら頭を撫でて、乱れてしまった髪を整える。
マスルールの言葉がモルジアナの中に染み込んでいくように、時間をかけて。
「俺が覚えている、唯一の母の言葉だ」
あとはジャーファルさんに聞いてくれと続けようと思ったが、モルジアナの目に止められた。
音もなくはらはらと零れ落ちる涙。
声にせずとも伝わっただろうと、口にするのは止めてモルジアナが手を伸ばす前に抱きしめた。
ここにはモルジアナの泣き声をうるさいと怒るような男はいないのだから、もっと大きな声を出せばいい。
王宮でそれぞれ訓練をしている二人に伝わるような、大きな声を出せばいいのだ。
涙で肌に張り付く布の冷たさを感じながらそんなことを思う。
木にもたれかかり、モルジアナの頭を撫でる。
上手にできているだろうか。
今頃山と積まれた書類を嘆いているだろう王と叱りつける政務官を思い浮かべる。
シンドリアの気候ならば服はすぐに乾くだろうが、その前にアリババとアラジンがくればいいと、王宮に向かってその愛された目を向けた。










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