煙草


「おかえり。今日は外で寝なくていいのかい?」

滅多に戻ることのない自室の扉を開ければ、カーテンの向こうから声が聞こえた。
穏やかな風にふわりと揺れるカーテンの切れ間から、肩越しに振り返るジャーファルが見える。
日中であれば決して外されることのないクーフィーヤは今はなく、身に着けているのは夜着の他は額飾りのみだ。
自室に戻ることが稀な主のせいで室内に明かりは灯されていないが、マスルールにとっては月明かりがあれば事足りる。
だから今も、暗い室内に躊躇うことなくジャーファルのいるテラスに足を進めた。

「あんたが来る気がしたんで」
ふふ、と楽しげな声が返事だった。
くるりと漸く身体の向きが変えられる。赤い紐を隠しもせず、手が伸ばされる。
反射で巨躯を傾けた。指は肩に近づき、触れないまま離れていく。
「さっきまで寝てたのに?」
見せられたのは、パパゴラスの赤い羽根。
付け根に近い、短く柔らかな羽根だった。
「はぁ」
「よくわかったね?」
「まぁ、シンさんいないんで。そろそろかなと」
「そんなにわかりやすい?」
「っすね。シンさんに関することなら」
そうかなー?とテラスに背を預けるジャーファルは自分で尋ねた割には関心が薄い。
自覚はあるのだろう。
城下の明かりは遠く小さいが、ジャーファルはまるで太陽でも見ているかのように目を細めた。
あの一つ一つに国民がいて、それはジャーファルの王が建てた国の民だ。
その民のために、自分の理想のために今、シンドバッドは海の向こうに行っている。
帰国まではおよそ1ヶ月。珍しくも、ジャーファルもマスルールも供に呼ばれなかった。

「煙草、吸います?」
勧めたのはマスルールからだった。
「うん。頂戴」
強く風でも吹けば飛ばされそうなほど、ゆらりと力なく垂れ下がる腕を取った。
正午を告げる鐘を合図に白羊塔に顔を出した成果か、手首の太さに変わりはなかった。それに達成感のような満足を得る。
寝台に深く腰掛け、大人しく手をひかれてきたジャーファルを開いた脚の間に招く。
もぞもぞと心地いい位置を確認して、やがて納得がいったのかぽすんと背中を預けてくる。その重みが愛おしい。
ゆっくりとした呼吸の数を数えていたら、ふにゃりと力の抜けた身体が下に下がって行ってしまった。
ぺしり、と二の腕を叩かれて、腹部に腕を回して元の位置まで引き上げる。
「ん」
一声、満足気な返答。
常夏のシンドリアといえど、元からの体温の低さと夜風に当たっていたせいで肌に触れる髪までひんやりとしている。
頭部に口づけるように顔を埋めればくすぐったそうな声。冷たい指先は腹の前で組んだマスルールの手に重ねられて少しずつ温度を取り戻している。
「煙草、くれるんでしょう」

要するに、不安定なのだ。命を捧げる相手の不在に少し、足元が覚束なくなっている。
もちろん留守を守るのは大事な仕事であり、ジャーファルの好むところだ。積み上げられた書簡も重くのしかかる責任も、苦にはならない。
しかしシンドバッドの不在は、ぽかりと穴が開いてしまったかのように不安を与える。例えば最初は顔を上げた時に後ろ髪が見えなかったり、半歩前にいつも見える背中がなかったり、そんな簡単な存在の不在だ。
その穴が少しずつ広がって、こうしてジャーファルが部屋を訪れるまでになる。
滅多に使われない机の上にランプと灰皿と煙草が置かれているのは、ひとえにジャーファルが訪れてきた時のためだ。
侍女が定期的に取り換えている、数少ない品の一つでもある。

暗がりに浮かぶ白い肌がランプの明かりで明るさを帯びる。
慣れた仕草で取り出した煙草を咥え、火を灯した。
ぱちりと、ゆっくりとした瞬きのあと、深く吸い込んだ毒が天井へと吐き出された。
薬草のような苦味のある、毒の香りが立ち込めた。

この煙草の香りを知ったのは、迷宮攻略の合間に立ち寄った、緑の多い国だった。
記憶の中、寝そべるシンドバッドがジャーファルに煙草を渡している。
吸いかけのそれをいぶかしげに見つめた後、なんでもないように吸い込み大いに咽ていた。
笑うシンドバッドと、煙で涙目になりながら怒るジャーファルが下草の上でじゃれているのを、少し離れて見ていたのだ。
見つかって手招かれた時、躊躇した。そこへ行っていいのかわからず、なかなか動けなかったのを覚えている。
名前を呼ばれなければ近くに行けたか怪しい。それでも一歩踏み出してしまえば、簡単に二人の元へと辿りついてしまう。
手渡された煙草に二人の顔を見て吸い込めば、案の定あまりの苦さに咽てしまった。
シンドバッドはまた笑って、子ども二人の髪をぐしゃりとかき回した。

それ以来、マスルールは煙草を吸っていない。
毒のようなもので癖になるからやめなさいと、シンドバッドにもジャーファルにも言われたのだ。
シンドバッドが煙草を吸うところも、招かれた席で勧められて仕方なく、といった場面以外ではその一度きりだ。
けれどジャーファルはシンドバッドがいない時、香りが自分についてもかまわない時だけ、ひっそりと火を灯していた。
それも、マスルールのいるところでばかり。
この香を嗅ぐ度に、二人の姿と肺を埋め尽くす苦い味を思い出す。

紫煙をくゆらせる指を掴む。クセになる煙草は取り上げて、すんと指先の匂いを嗅いだ。
体臭を感じさせないジャーファルが唯一纏わせるインクの香りも今はなく、薬草の様でいて毒素の強い香りが移っている。
マスルールが思い出すくらいだ。この賢く物覚えの良い想い人が誰の姿を描いていたかなんて問いただすまでもない。
抱きしめていてもなお遠い距離がもどかしくて、衝動のままに焦げた匂いのする指先に噛みついた。
皮膚が裂け、血が流れる程。
「どうしたの?」
痛みなど欠片も感じていないかのような声。
「寝物語でもしてあげようか?」
無事な左手が物慣れない仕草で頭を撫でる。
「そっすね。まぁでも今は、このままでいいです」
「うん。そうだね。そうしよう」
柔らかな声が、寂しそうだと感じる。胸がざわつく。
ぢゅ、と滲み出る血を強く吸って、喉を焦がす小さな違和感を大きなもので誤魔化すつもりだった。
「マスルールはあったかいねぇ」
「はぁ」
マスルールの目の前にはジャーファルの頭部がある。小さな、握りつぶせてしまえそうなサイズだ。その小さな頭の中のほとんどが、シンドバッドと政務のことで占められているのだろう。
知っていてなおジャーファルを欲したにも関わらず、今それが無性にもどかしい。
風にそよぐ白い髪と、そこから覗く黒子すらない首筋が目に入る。
背を丸めて舌を伸ばす。舐め上げればびくりとジャーファルの肩が跳ねた。
狙い定めるように何度も、何度も、舌でなぞる。
冷たい肌にがぷりと噛みついた。
一度強く噛んだ後は、かぷ、かぷと柔らかく、つけた歯形を確かめるように続ける。
ジャーファルは何も言わず、ただ腹に回された腕を優しく撫でる。
灰皿の中では消された煙草がそれでもなお、一筋の紫煙が立ち上がり、風に揺れてやがて、消えた。










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