魔法をかけるよ


夏が終わった。
いや、終わったのは四天宝寺の全国大会で、季節はまだ夏の盛りをこれから迎えるところだ。
それでも財前にとっては、アスファルトに反射した熱気も、青空に滲む入道雲も、競い合う蝉の声も何もかもすべて、一枚壁を隔てたかのように遠いものに思えた。
ろくに動いてもいないのに流れ落ちた汗が、冷えた背中を伝って気持ちが悪い。
(ああ、終わってもうた)
なんでこうなったんだろうとも、去年もこうだったろうかとも、色々な思いが頭を過るけれども、結局四天宝寺は負けたのだ。勝ったのは青学。記録されるのは純然たる事実だけだ。
無性に喚き散らしたい気もするし、声を上げて泣きたい気もする。けれどそれをしていいのは自分ではないとも、財前は思っていた。
(ちゅーか、なんで俺やねん。謙也さん最後やし、出したったらええのに)
気持ちの落としどころが見つけられずに、苛々が止まらない。
自分がコート外に出なければならなかったのは、もういいのだ。あれは手塚と千歳の試合だった。何か変わるかと思って一石を投じてはみたものの、波を立てることすらできなかったのは、圧倒的な力量差だ。
汗で滑る手をぐ、と握り込んだのは無意識だった。
(どーせ来年があるからとか、くだらん理由やろ。自分は今年が、最後やのに。わかってんのかあのアホウ)
間近で二人の試合を見れたことは確かに財前にとっては貴重な機会だった。けれど秤にかけるのが謙也の出場というのは腑に落ちない。
そこまで考えて溜息が出た。すべて結果論でしかないことは、わかっているのだ。
勝つつもりのオーダーを出して、負けた。それだけだ。
「――――ああ、負けたんやなぁ」
ぽろりと落ちたのは、言葉だけだった。

飲み物を買ってくる、なんて適当な言い訳でチームから離れてからどれぐらいたっただろう。
そろそろ戻らなければと自販機に目をやれど、不思議と手は動かない。
あーやっぱポカリは人気やなぁなんて、売り切れの赤いランプの点滅を見つめるだけ。
こんな直射日光が当たるところで立ちっぱなしなんて無駄もいいところだと、思うのに。

ドンっという衝撃は、突然だった。
慣れ親しんだ、けれど少しずつ重みを増している身体が、背中に飛びついている。
「光ー!なにしてん?決められんのやったらワイが押したるでー!」
「………金太郎」
なにしにきてん、と地を這うような声も金太郎には効かない。
肩越しに合う視線。睨みをきかせても、金太郎相手には意味がない。
「光遅いんやもん。白石も謙也も千歳も、みーんなそわそわしとって落ち着かんわー」
挙げられた名前に財前の眉が釣り上がり、ぎゅ、と口を噤む。
「せやからワイが迎えに来たんやで!」
はよしーやー、と頭をぐりぐりとすりつけてくる、仕草だけは子犬のようだ。
「あつ………」
離れろ、腹部に回された手を軽く叩くが、より強くユニフォームを掴まれる羽目になる。
「金太郎」
「ここ缶しかないやんーよぉ飲んでるあのピンクのないん?」
「いちごミルクな。あれ紙パックやし、今飲むタイミングちゃうやろ」
「えー?なんでなん?」
「自販機にも派閥があんねん。それにこない暑い中で甘いモン飲めるか」
「ほな、飲みたいもんないんやったら戻ろ。みんな待ってんで」
なぁーと重ねてかけられる声に、返す言葉を財前は持っていなかった。いつもなら簡単に煙に巻くことができるのに、ここぞという時ばかりはダメなのだ。
別に金太郎は財前がスマホも財布も持たずに立ち尽くしていただなんて、知っているわけではない。
持ち前の勘とでもいうべきか、いつもと違うと金太郎に思われれば、梃でも動かなくなるのだ。
「光」
ぐい、と手を取られて、向かい合わせになる。
ゆるゆると足首から視線を上げて行けば、思ったよりもわずかに高い位置で目が合う。
真剣な目だった。テニスをする時は真剣さより楽しさが勝るから、こんな全てを見透かすような目は、知らなかった。
何を言われるのかと、思わず息を飲む。
呼吸が止まって、数秒。じっと合わせられた視線を瞬きで遮った後、金太郎はにっと見慣れた笑顔で、笑った。
「光。にらめっこしよー」
「…………は?」
間抜けな声。煩くなった蝉の声に混じって小さくかすれて消えていく。
「アホか」
「えー?ええやん。アカン?なんで?」
(イヤ、なんでって、意味わからんやろ)
いつもの通りといえばいつも通りの唐突さに呆れて、なーなーと掴んだ手を振る金太郎からようやく視線を外すことができた。
「も、帰んでー……っ!?」

自分で自分の言ったことに驚いて、思わず視線を戻して見れば。
きらきらした瞳を細めて、ふはっと笑う金太郎がいた。
その、悪戯が成功した時に財前の甥っ子がよくやるような、無邪気な笑顔につられてしまったんだろう。

「光笑った!ワイの勝ちやー!!」
どんっと今度は前から抱きつかれて、たたらを踏んだもののなんとか持ちこたえる。
してやられたと空を仰げば、阿呆みたいに澄んでいて、太陽の光が目に染みてくる。
「あーせやな。もうええわ」
ぽんぽんと頭を撫でてやれば、もっとと強請るように赤い髪が押し付けられる。
「……っちゅーか、お前のほうが先に笑ったやろ」
「聞こえへんー」
「はぁ……も、帰んで」
「おん!」
手を取られて、金太郎のペースで歩かされる。
そういえば、謙也は財前の行動を遅い遅いと言いながら、歩くペースは同じだったなと思う。いや、同じではなく合わせていたのだと、唐突に理解した。
千歳もあれだけリーチに差があるのに、見上げる首が痛いと思えど、置いて行かれることはなかった。
小石川や銀は後ろからゆっくりついてきて、ユウジと小春は後ろや前を行ったり来たり。
白石は。
白石は、部長として一番前を歩くことが多かったけれど、よくこちらを振り返って、辿りつくのを最後までちゃんと待っていてくれた。
たった1年の差が、こんなにも大きかったのかと、いま思い知らされる。
たくさんの大きな手が伸ばされていて、その手を握ってついていけば、それで良かった。でももう、夏は終わる。
繋いだ手が熱いのは、金太郎と財前とどちらのせいだろうか。

「来年」
金太郎は振りかえらない。ただぎゅっと手が握り返される。
「来年、優勝旗持つんは、ウチやからな」
ぐん、と増したスピードに足がもつれそうになるけれど、負けずに速度を上げる。
返される言葉を、財前は疑わない。
「―――あったりまえや!!」



馬鹿みたいに鮮やかな黄色と緑のユニフォームが見えてきた。
落ち着きなくうろうろと揺れている個性豊かな髪色の心情を遠目に察し、への字が常態と言われる財前の口元が珍しく緩む。まさか見えたわけでもないだろうに、一番忙しなく動いていた明るい髪色がぴたりと止まった。近づいてくる二人の姿を確認し、大きく手を振ってくる。
名前を呼ぶ声に、きゅ、と口元を引き締めて、いつも通りの可愛げない仏頂面を綺麗に整える。
わずかな距離を埋めるようにみんながこちらに近づいてくるせいで、走る勢いを殺しきれずに止まった金太郎にぶつかりそうになりながら財前も足を止めた。
果たされなかったダブルスの相手が「お、おそかったやん」と噛みまくりながら言うのに笑いを堪えて、いつも通りに言ってやる。
「先輩ら、ダサイっすわー」
笑かしたもん勝ちやと、声が震えないように視線を逸らさないように、強く手を握った。
「来年は俺と金太郎が笑かしたるんで、東京までの交通費、貯めといてくださいね」

夏はまだ、終わらせない。
笑うどころか泣きそうになっているダサイ先輩たちを前に、財前はひっそりと、わらった。










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