うちの子におなり


上手くいかない。全てが。
黴の匂いがする古書を手にとっても最新の魔法理論を唱えた巻物を見ても、ヒントになるものはどこにもない。
「―――ハ?――――イハ!」
あと少し、そのはずなのに、捕まえられない。
私の頭のどこかに答えはあるはずなのだ。
コポ、と気泡を吐き出す液体を見つめても意味がないとわかっているのに、やめられない。
「ヤムライハ!」
官服の裾を両手で握りしめても、皺ができて女官を心配させるだけなのに。
「おい!ヤム!!」
「ひゃっ!?」
耳元で呼ばれた自分の名前に肩が跳ねた。
振り返れば、腰に手をあて、呆れた顔でこちらを見るジャーファルさんがいた。
「お、お疲れさまです…?」
久々にまともに人の顔を見た気がする。まじまじと眺めてみれば、辺りは暗く、ジャーファルさんの頭にはクーフィーヤがなかった。
終業時間はとっくに過ぎている様子。
「おいで。それ、放っておいても危険じゃないだろ?」
「はいっ」
伸ばされた手に、反射的に手を伸ばした。
ひんやりとした手は初めて手を繋いだあの日から変わらない。
少しだけ、大きさと厚みが増している分、私の指も長くなったのだろうか。
く、と引かれる手に身を任せる。反対の手は私の帽子を攫って、適当な場所に置いた。
私はなんとなく、ごちゃごちゃの部屋にぽつんと置かれた真っ黒な帽子を見えなくなるまで眺めてしまった。



「どこに行くんですか?」
「どこがいい?」
「どこでも、ジャーファルさんが連れて行ってくれるところがいいです」
晒された襟足が真白いうなじに流れている。
月明かりに光って、とてもきれい。
足音は私一人分。それでも右手から伝わる体温があるから、怖いものなどなにもない。
「星を見に行こう」
「はい、見たいです」
私がシンドリアに来たころはまだジャーファルさんは見習いのような立場で。王は国の基盤づくりに忙しく、私は一人、たくさんの本に埋もれていることが多かった。
結局魔法しかなかったのだ。あんなに天才少女と言われるのが嫌だったのに。
学院を出ても何も変わらない。脅迫するのが先生から自分に代わっただけだった。
私を連れ出してくれた王に報いたくて、がっかりさせたくなくて、ひたすら本を読んでいた。
意外な貴重書や私が閲覧できなかった棚で見覚えのある書物があったのは幸いだった。
知っている本ばかりだったら、私は恐慌を来していたかもしれない。
「足元、ちゃんと見て」
「はい、ジャーファルさん」
真っ黒な服。尖った帽子。それと魔力だけが私の財産すべてだった頃のこと。



「シンは、おまえが天才じゃなくてもここに連れてきたよ」
あの時読んでいたのは、確か地学書だった。水脈を見る方法を一緒になって考えていたから、きっとそう。
「ここから出て行って野垂れ死にするようだったら止めるだろうけど、誰かの養子になって普通に暮らすって言うなら止めないはずだ」
「……私、何もお返しできてません」
「そういうの、気にしないから。あのバカ」
ペンだこがつぶれて、またたこができている指。袖口から覗く赤い紐。朝早くから夜遅くまで、勉強しているのを知っている。
きっとジャーファルさんは、私を見極めに来たのだ。王の代わりに。
そう思えて仕方なかった。
「でも私は」
溢れる魔力で、ジャーファルさんの探している水脈だって、辿ることができる。
「私は、天才魔導士なので、王のお役に立てます」
「……そう」
私を見返したジャーファルさんは、口の端で小さく、微笑っていた。
「そうです!水脈探す方法だって、思いついたんですからね!」
「ほんとに?」
「ほんとです!準備があるから今すぐは無理ですけど、明日なら!」
ふぅん、と探るような瞳で見つめられて、でも私は引かないのだ。
「その服、ここじゃ暑いだろ。明日、服を買って、それから探しに行こう」
「二人で?」
「二人で。ヤムライハにシンドリアを案内していて、偶然、水脈を見つけるだけだから」
シンドリアらしい快晴の日だった。
道路を造って家を建てて、あちこちで工事の音がしていた。まだ一軒しかなかった仕立屋さんは布も豊富でなかなったけれど、私のために残り少ない反物で、すぐに服を仕立ててくれた。
待っている間に案内してもらった街は明るく溌剌としたルフに満ちていて、とても気持ちが良かった。
そしてその日、私たちは偶然、水脈を見つけた。



「なに呆けてる」
「私、まだあの服とってあります」
女の子らしくて可愛い、淡いピンクの服。
そういえばこの髪も王が褒めてくれるまで嫌いだった。学院の黒の服に映えて目立ったから。
君の髪はまるで美しい海のように神秘的な色をしている、なんて、子どもに言う褒め言葉じゃないでしょう。
よくわからないのに真っ赤になってしまった私を、不思議そうな顔して見つめる王と呆れた顔したジャーファルさんがいたのを覚えてる。
「ジャーファルさんが買ってくれた服ぜんぶ」
水脈を見つけた日から、黒い服は着るのを止めた。
私はマグノシュタットの天才魔導士ではなくて、シンドリアの天才魔導士になったのだからと。
ジャーファルさんは時々、服を買いに連れて行ってくれる。
がんばったね、って。
「疲れてんなぁ」
砕けた口調が嬉しい。
「ジャーファルさんも」
丁寧な口調が面倒な時は、疲れている時と決まっている。
「ほら、着いたぞ」

満天の星空。眼下にはシンドリアの街並み。風が海の匂いを運んでくる。
「ん」
「はい」
座り込んだジャーファルさんの脚の間にちょこんと収まる。
あの頃の私には知る由もないことだったけれど、これは全部王がジャーファルさんにしてあげていたことだ。
居場所を作って、服を買って、行き詰っていたら連れ出して、食事を与える。
だから次に出てくるものもわかってる。
「どうせまた何も食べてないんだろ」
「食べてましたよー」
「うそつき」
「ジャーファルさんは最後に食べたのいつなんですか」
「今にするから平気」
「へりくつ」
準備を整えてから私を連れ出してくれたらしく、敷物があるからお尻も冷たくないし、手の届くところに食事が用意されていた。
「がんばってるヤムライハに乾杯」
「がんばってるジャーファルさんに乾杯」
果実入りのお酒は甘く喉に染みわたった。
「ジャーファルさぁん」
「うん、ヤムはがんばってるよ」
「あとちょっとなんです。ほんとうに、あとちょっと」
「根詰め過ぎなんだよ。ピスティから誘いを三回断られたって苦情が出てる」
「だってぇぇぇ」
ぜんぶお酒のせいにして、ジャーファルさんに甘えてしまえ。
疲れたのだ。天才だって、すぐになんでもわかるわけじゃない。
「明日と明後日、休み。明日は買い物、明後日はピスティと出かけてこい」
「ジャーファルさんに買ってもらったお洋服着て?」
面倒くさがりなジャーファルさんは、杯を干すことで返事に代えた。
「楽しみ、です」
八人将で並ぶとどうしても華奢に見えがちだけど、ジャーファルさんは細くても実用的な筋肉がついてるから、背中を預けてぐりぐりって頭を擦り付けても全然平気。
撫でてもらって、パンに野菜やお肉をサンドした軽食でお腹を満たして、とても幸せな気分になる。
ルフのいい音がする。
単純だなぁと呆れもするけれど、いいのだ。

「俺も」
「はい」
「俺もシンがくれた服とってあるけど、私服はがないのかって聞かれて最初に買ってもらった服見せたら、変な顔された」
見上げた顔は悩ましげで、何を失敗したのかわからない顔だった。
「こないだ、王が外交先で購入された生地で仕立ててくださった服はどうしたんです?」
「あれ私服じゃない」
……確かに、王はなんだか理由をつけていましたが。
「自分で買った服、ないんですか?」
「ない。着ることないし、選ぶの面倒」
「王と城下に行かれる際は、」
「お忍び視察用って仕立てられた服着てく」
「………そうですか」
「だから明日一緒に買おうかと思って」
「それはダメです」
私が明後日ピスティと出かけられなくなります、確実に。
「なんで」
「なんでも、です。自分で買うのが嫌なら、王に買っていただくべきです」
「なんだそれ」
疲れた笑顔。
「ジャーファルさん、疲れてるんです」
上半身をひねって、頭を撫で返してあげる。ここにはいない、ジャーファルさんの一番の人の代わりに。
「大丈夫です。ジャーファルさんはいっぱいがんばってます。ちょっと休むくらい、大丈夫です。ジャーファルさん以上に王の近くに行ける人なんて、誰もいません」
「足りない」
「王のことを一番に考えてシンドリアのこともたくさん考えて、ジャーファルさんは偉いです。いいこ。お腹いっぱいになりましたね。ヤムはもう眠いです。一緒に寝ましょう?」
「ガキか、私は」
額飾りを合わせたら、伝わる熱は少し高かった。
うなじも少し、熱い気がする。
「いいじゃないですか。たまには」
「そういうもの?」
「たまにはジャーファルさんも私に甘やかされるべきなんです」
「ははっ」
笑って私を抱きしめて、寝転んだ。
「おやすみなさい、ジャーファルさん」
「おやすみ、ヤムライハ」



朝起きたら自分のベッドかな、と予想して眠りについたのに、意外にも朝日の眩しさで目が覚めた。
私の隣にジャーファルさん、その向こうに、我が王のお姿。
「マスルールくん?」
「っす」
探すより先に声を出したら、足元で声がした。
ジャーファルさんと王の間。そういえば昔、みんなで寝た時にも自然とそこに陣取っていた気がする。
「おはよう」
「おはようございます」
「折角ジャーファルさんとデートできると思ったのに」
「はぁ」
「仕方ないなぁ、もう」
「そっすね」
ジャーファルさんの嫌そうな、それでいて嬉しそうな顔を見るのが楽しみで、寝たふりをするためにもう一度、ジャーファルさんの背中に引っ付いた。





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