ジャーファルの執務机のすぐ傍に用意された机。
書き損じを示すバツが書かれた用紙が積まれ、羽根ペンが何本も置かれている。
「ね、この紙はもう使えないものなので、いくら使っても大丈夫ですよ」
服を汚さないようにと、前掛けがかけられる。
「今日は初めてですから、名前を練習しましょうか」
羽根ペンの山の一番上から一つとり、インク壺に入れ、余分なインクを縁で落とすと、さらさらと紙に黒い線が走る。
その様子がとても不思議なものに見えて、モルジアナは呼吸も忘れてじっと見つめた。
「モルジアナ」
顔を上げる。ジャーファルは楽しそうに、すっと白い指で黒い線を指す。
「これが、あなたの名前ですよ」
「私の」
「もう一度書きますから、今度は順番を覚えましょうね」
そう言って先ほどよりもゆっくりと、音を声にしながらジャーファルの手が動く。
「今度は一緒に」
モルジアナの手に羽根ペンを持たせ、ジャーファルは手を重ねてモルジアナを導く。
少し冷たい手と初めて握る羽根ペンに緊張して、どうやって書いたか全くわからなかった。
「あの」
「うん?」
「もう一度、お願いします」
「もちろん。何度でも」
そうして3回、教えてもらった。
「わからなくなったら呼んでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
ジャーファルは自席に戻り、巻物を広げる。モルジアナは二人で握っていた羽根ペンを一人で握り、ばき、と折った。
もちろん折るつもりなど欠片もなかった。きちんと握ってしっかり書こうと思ったのだ。感覚を忘れないうちに。しかし無残にも細い羽根ペンはモルジアナの手の中に半分、机の上にもう半分に分かれてしまった。
「……」
新しいものを手に取り、インク壺に入れる。底まで差してしまい、手に反動があった。たくさんつけすぎてしまったインクはやはり、紙の上にぼたりと落ちた。
「……」
お手本を見ながら、同じように線を作ろうとする。二人の時はあんなに簡単に書けていたのに、紙にペン先がひっかかって上手く進まない。
じわじわとインクが染みていって、なんとか最後まで書いたものの全く読めなかった。
今度はインク壺に少しだけつけてみた。
掠れてしまってもう一度つけるが、今度はつけすぎてまたぼたりとインクが落ちる。
先ほどよりは見れるものの、同じ字を書いたとは到底思えなかった。
次こそは、と意気込み慎重にインクをつける。はじめの文字は大きいもののちゃんと書けた。インクをつけ直して、次の文字を書こうとした瞬間に羽根ペンが音を立てて折れた。
新しい羽根ペンを持ってまた書く。けれど文字が大きくなりすぎて、最後まで書ききれなかった。
何度も何度もそうやって書き直し、手が少し痛くなった。けれどその頃には力加減もだいぶわかって、きちんと紙の中に文字がすべて収まるようにまでなった。
途中で鐘が一度、鳴っていた。

「できましたか?」
顔を上げれば柔らかな表情のジャーファルがいた。
できたのだろうか。机の上を見直せば、折れた羽根ペンの欠片と汚い文字が書かれた紙が山となっていた。
唯一机の端に置かれているジャーファルの書いたお手本のみが、美しく姿を保っている。
改めてお手本と自分の時を比べると、全く違った。
ひどく悲しくなって、ぎゅ、と唇を噛み締める。
ジャーファルは黙ってしまったモルジアナを気にせず、最後に書かれた一枚を持ち上げうんうんと頷き鑑賞する。
「モ、ル、ジ、ア、ナ。うん。ちゃんと読めますね。初めてなのに、上手に書けましたね」
「!」
「がんばりましたね」
細い指にはペンだこが見えた。今まで全然気にしていなかったのに、なぜか今、気づいた。
頭を撫でられたのに、いつもなら心地よく思えるのに、今は自分がとても情けなく思えて、かなしい。
「手は痛くありませんか?もっと早くに声をかけるべきでしたね」
いつの間に用意したのか、濡らした布でインクの飛んだ手や顔を労わるように拭われる。
「初めに書いた文字と比べると、上手になっているのがよくわかりますね」
一番下に置かれていた紙を引っ張り出してジャーファルが言う。確かに、ぼたぼたとインクが飛んでいる上に最後の文字を無理やり納めているそれと比べて、最後に書いた文字は大きいもののしっかりと読めた。
「折角ですから、見せに行きましょう」
「え」
綺麗な紙を2枚、インク壺に羽根ペン、そして大事なモルジアナの名前を持ってジャーファルはさっさと扉を開けた。
慌ててモルジアナは立ち上がる。確かに初めに比べれば読める字だが、本当に汚いのだ。
それを誰に見せに行くというのか。予想できるだけに、早く止めたかった。





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