執務室から廊下に出れば、入るときには高い位置にあった太陽が西の空に沈みゆくところだった。
オレンジ色の光を官服の裾で弾きながらジャーファルがどんどん歩いていく。真っ直ぐに伸びた背をモルジアナは追うしかない。
「あの、」
「もう日が落ちるね。あの子たちも修行が終わる頃合いだろうし、丁度よかった」
「あの!」
いつになく大きな声を出したモルジアナに、ようやくジャーファルは足を止めた。
「どうしたの」
「ダメです。見せては、いけません」
「どうして?」
「……上手に書けませんでした」
「そうかな」
「そうです」
ぐっと慣れないことをしたせいで痺れたように痛みの走る手を握りしめる。
「では聞いてみましょうか」
「え」

「アリババくん、アラジン、お疲れさま」
「ジャーファルさん!」
「ジャーファルお兄さん!」
「今日の修行はおしまいですか?」
「うん!モルさんがジャーファルお兄さんのところにいるって聞いたから、ご飯を食べようと思って呼びにきたんだよ」
「そうでしたか」
にこにこと話を聞くジャーファルはとても楽しそうだが、彼の両腕にあるものを知っているモルジアナは緊張して何も言えなくなっている。
「モルジアナと何してたんですか?」
「ふふ。モルジアナはとてもがんばっていましたよ」
「何だい、教えておくれよ」
とっておきの宝物を見せびらかす時、すぐに見せてしまっては面白くない。期待させて、焦らして、興奮を高めてより興味を持たせなければ勿体ない。
「モルジアナは、字を書く練習をしていたんですよ」
それがここにあります、とジャーファルは両腕に視線を落とす。
「そうだったのか!」
「モルさん、字が書けないって言ってたものね」
「見たいですか?」
「見たい!」
「早く見せておくれよ、お兄さん!」
ダメだいけない見せてはいけない。だって期待されるほど上手になれなかった。最後に書いた文字だって、よれて曲がっていてお手本と全然違う。

「こちらです」

その字は、かろうじてモルジアナと読めるものの、幼い子どもが書いた落書きのように線は歪んでしまっていた。
それでも読めるのだ。書くことも読むこともできなかったモルジアナが覚えて、初めて書いた字が。

「すごいやモルさん!」
まずアラジンがうつむくモルジアナに飛びついた。
「あぁ、すごいぞ!」
アリババも近くにより、モルジアナの手をとる。
爪の間には拭いきれなかったインク、指には真新しいペンだこができていた。
「午後からずっと練習してたのか?難しいよな、書くのって」
自分の字が上手くないことを、モルジアナはよくわかっていた。誉めてもらえるような出来ではない。それなのに二人はとても嬉しそうに、わらっている。
「……難しくて、全然上手くなりませんでした」
「初めて書いたんだろう。ペンだこできるまで頑張って書いたんだ。いい字だよ」
「それに上手いとか上手くないとかじゃないさ。前は書けなかったのに、モルさんは自分の名前が書けるようになった。すごいことだよ」
「そうでしょうか」
「そうさ!」
その言葉に、ようやくモルジアナはちいさく笑みを浮かべた。
うつむいていたせいで、二人は見ることはできなかったけれど。



「なんかジャーファルさんが癒されてる」
「すごいな、俺あんなに穏やかなジャーファルさん久々に見たぞ」
楽しげな子どもたちを一歩離れて見守るジャーファルを、曲がり角から顔だけを覗かせて好き勝手にいう二人の師。
その後ろから仕事を終えたマスルールが歩いてくる。
「何やってんすか」
「ジャーファルさんがモルジアナに文字を教えたみたいでね、アリババくんとアラジンくんにモルジアナが自分の名前書いた紙を見せてあげてるのよ」
「ほんっとジャーファルさんあいつら好きだよな。見ろよ、すげぇ幸せそう」
「はぁ」
指さす方へと角からぬ、と顔だけ出せば、確かに紙を手に褒めちぎる二人と、段々表情が明るくなってきたモルジアナがいた。そして、微笑ましげにその様子を見ている大人が一人。
肩を竦めて、壁にもたれかかる。
ジャーファルの腕に残された紙とインクと羽根ペンの使いどころを、マスルールはよくわかっていた。



「さて、今日はもう練習はおしまいですが、折角なので他の文字も覚えてもらおうと思います」
「何だい?」
「協力してくれますか?アラジン、アリババくん」
「もちろんです!」
官服の裾を払い、ジャーファルは床にしゃがむと新しい紙とインク壺、そして羽根ペンを置いた。
紙は2枚ある。
「アラジンとアリババ」
次にモルジアナが覚える文字ですよ、と秘密を打ち明けるかのようにジャーファルが囁いた。
「え、いいんですか?」
「書くよ!」
戸惑うアリババとは対照的に、喜んでアラジンは羽根ペンを取る。
机の上と同じようにとは言わないが、それでも丁寧に名前を書いた。
「これが僕の字だよ、モルさん」
両手で持ち、モルジアナに見せる。
「明日は僕の文字を見せておくれよ」
「……じゃあ、俺も」
アラジンより時間をかけて、今までで一番丁寧にアリババも名前を書いた。
「これで、アリババ。慣れないうちはペンだこで指が痛くなるから、無理するなよ」
二人の顔と文字をせわしなく行き来するモルジアナの赤い瞳はやがてしっかりと視線を定め、強く頷いた。
「さぁ、食事に行っておいで。汚すといけないから、書いてもらった名前は私が預かりましょう」
「お願いします」
「モルジアナの部屋に必要なものは揃えておきますが、アリババくんの言うとおり、あまり無理をしてはいけませんよ。モルジアナは今日初めて、書くことを知ったのですから」
「はい」
「少しずつ、文字を覚えていきましょうね」
白い手が伸ばされて、頷くモルジアナの頭を撫でた。
この手はいつ、文字を覚えたのだろうか。どれほど書けばあのようにきれいな字で二人の名前をかけるだろうか。
はやく書きたくて、書けるようになりたくて。その日の食事の味はよく覚えていない。
ごちそうさまもおやすみなさいのあいさつもそこそこに駆け戻った部屋には、書くための道具が揃えられていた。
アラジンとアリババの名前を机の上の方にきっちり並べ、ペンを取る。
初めの一文字でばきりと折れてしまったけど、もう気にならなかった。

ひらすら書いて、形が次第に整ってきて、これは綺麗に書けるかもしれないという文字の最後の一字は、とても緊張した。
ゆっくりとペンを紙から離す。
「できた」
ふーっと息をつけば、肩が凝り固まっていた。
それでもとても、幸せな気分だ。
明日これを見せたら、驚くだろうか。また褒めてもらえるだろうか。
欲張りな自分を自覚しながら、ふかふかのベッドにモルジアナは倒れ込んだ。
それは奴隷だった頃を思えば、怖くなるほどの幸福だった。





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