インクとペンだこ


仕事があると言われて午後は自習となった。
別段珍しいことでもなく、簡潔に伝えられた事項にモルジアナは揃いの瞳を見つめ返してこくりと頷いた。
それに頷き返したマスルールが、ぽす、と揃いの赤い髪を撫でる。ぐしゃりと乱雑な音が立ってしまうのには互いに諦めてもう気にしなくなった。照れは未だ、残るけれど。
モルジアナにとって、大人の手が伸びてくるということは、それは大概が自分を傷つけるためのものだった。長年の躾けで染みついた、伸ばされた手に瞬時に身構えてしまう癖は、シンドリアにきてから大分改善されたように思う。
この大きな手に怯えるのは嫌だった。痛くないとわかっているのに怯えてしまうのは、悪い。
癖を改善してくれたのは、どんなに身構えてもまるで気にせずに触れてくるジャーファルのおかげだった。モルジアナの仕草に気遣うこともなく、するりと手を伸ばしては撫でられた。
お疲れさまと、訓練が終わった後に会えば手を伸ばして二人分、頭を撫でて袖口から甘い香りの菓子で労わってくれる人。それがモルジアナにおけるジャーファルのイメージだ。
あの白い手で撫でられると、まるで自分がとても頑張ったような、良い子であるような気になってしまうから不思議なものだ。
あれほど嫌悪した大人の手は、もう怖くなくなっていた。

「マスルール、モルジアナ」

両手に巻物を抱えたその人が、こちらに向かってくる。
「っす」
頭上で落とされる声とともに、モルジアナはぺこりと頭を下げた。結んだ髪がぴょこりと揺れる。
「ごめんねモルジアナ。先生をとってしまって。マスルールもごめんね、急に」
「いえ」
「大丈夫です」
柔らかく微笑い返すジャーファルは器用に片腕に巻物をまとめた。すっとマスルールは腰をかがめる。
伸ばされた白い手は文官には似合わない小さな切り傷がたくさんついているのを知っているが、撫でられている時にそんなことは微塵も感じない。ただ心地よいだけで、マスルールも目を細めている。
大型の動物ですらこの人の手にかかれば、まるで猫のようにおとなしく撫でられているのではないかとモルジアナは想像した。
「じゃあよろしくね」
「はい」
モルジアナを一瞥してからマスルールは踵を返し、城門へと向かった。
ひらりと手を振るジャーファルを、なんとはなしにモルジアナは見つめていた。
午後の予定は何もない。自主訓練をしてもいいし、パパゴラスを狩りに行りにいってもいい。でもその前に、たくさん抱えている巻物を運ぶのを手伝いたい。
今のところ、撫でられる手や与えられる菓子に返せるのは、そんなものくらいなのだから。
「ジャーファルさん」
「うん」
「持ちましょうか」
両手を伸ばせば、じゃあお願いしようかな、と目を細められて巻物を二つ、託される。
「ありがとう」
白羊塔へ向けて足を運ぶ彼の隣、全部持てたのにと頬を膨らませるその姿は、通りかかった女官の頬を緩ませた。
「モルジアナは午後の予定は決まっていますか?」
「いえ、まだです」
「そう。なら、文字を覚えてみない?」
「……文字、ですか?」
見上げれば夜よりも黒い瞳が楽しげにわらっていた。
「えぇ、先日、文字は書けないと言っていたでしょう?」
「あまり、必要だと思いません」
少なくとも肉体労働を買われて隷属させられていたファナリスには不要なものだ。文字はお金持ちや偉い人のもので、モルジアナのものではない。
それよりも体を鍛えた方が、よほどいいと思っている。
「読み書きができるということは、武器が一つ増えるのと同じことですよ」
「武器?」
「例えば迷宮で文字が書かれていて、誰も文字を読めなかったら困るでしょう?はぐれた時も、文字を壁に刻めば伝言ができますね」
アリババが王になれば、眷属であるモルジアナが文盲というのはあまり体裁が良くないだろう。それにきっと、護衛として傍にいるだでけは足りなくなるはずた。読み書きができれば助けになることがきっとできる。
自分がそうであったように。
けれどそこまでは言わず、ジャーファルは目先で役立ちそうなことを伝えてみる。
「午後の予定がないのなら、少しだけ、練習してみませんか?」
足を止めてモルジアナの瞳を見つめる。戸惑いに赤が揺れているけれど、こくり、と確かに頷いた。
きっかけさえできれば、こちらのものである。
にっこりとジャーファルは微笑み、白羊塔へと足を進めた。





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