「ただいま」
陽が落ちて鐘が一つ鳴った頃、主が戻ってきた。
「いいこにしていたか?」
私を抱き上げそんなことを言う。
昼食を持ってきた女に姿を見せてはいないし、殺してもいない。食事に毒は入っていなくて、このままでは耐性が落ちてしまうと思ったけれど、言いつけどおり全部食べた。
その他にこの部屋に入った者はいない。身体を動かして牙を研ぐことしかできなかった。
不満に喉を鳴らせば、苦笑でもって返された。挙句、猫にするかのように喉をくすぐられる。私は愛玩される生き物ではないというのに。
じっと端正な顔を見つめれば、疲れが見えた。
貿易の交渉が上手くいかないのだろうか。文官が条例を押し通そうとしているのだろうか。それとも新たな問題が浮かんできたのだろうか。
主を悩ます物事を、部屋から出れない私には知る術がない。

「殺そうか」
誰かの声が聞こえた。それは私の気持ちを代弁したかのような言葉だった。
そうだ、殺してしまえばいい。
「寝入ったところに忍び込んで、毒を飲ませればいい。あの外交官は煙草を好んでいたから、火をつけてしまえば毒のせいだとは思われないだろ。文官なんてもっと楽だ。強盗に見せかけて殺してやる」
私は蛇の中では一番殺すのが上手だった。だから生きてこれたのだ。
今誰かがいったことを実行することなんてとても簡単だ。
許しが出るなら、今すぐ出かけたっていい。警備が厳しそうなら下調べに留めておくが、問題がなければそのまま殺す。
主が頷くように誘いをかける。
するりと真白い鱗を動かして首に巻きついた。頬に顔をすりつける。命令して欲しい、少しでもその憂いの元を取り去りたい。
「そうだな。お前はきっと上手にできるだろうけれど、それはいけない」
「なぜ」
「道具のようにお前を使うつもりはないよ」
「では、私は不要ですか。私は誰より、お役に立ちます」
思ったことが声になっていた。私は一番お役に立ちたいのに、使うつもりがないなどと言われたらどうすればいいのだ。
あなたのためなら、どんなことでもするのに。
金色の瞳が私を見ている。
怒っている時とも笑っている時とも違う、真摯な瞳だ。
「なぁジャーファル。人を殺さなくたって、お前は十分俺の役に立てるよ。外交官との交渉事は俺だって得意だし、向こうに不利な情報をお前は集めているのだろう?それと合わせれば、こちらに有利とまではいかなくても五分の状態で交易ができるさ。文官については束ねているお前が悔しい思いをしているのもわかるが、悪事が公になるのもいいことだ。きちんと裁きを行った方がいい。そのためにお前が苦労して法律を作っているんだから、使わせろ」
幼い子どもに言い聞かせるような口調とは裏腹な政治の話を、私にしてくる。
でも私は毒蛇だから、そんなことはできない。
あなたの役に立ちたいのに。
「ジャーファル。お前の声をもっと聞かせてくれないか。殺すとか、殺せとか、物騒な話はなしだ。俺を誉めたり叱ったりして欲しいんだが、どうすればいいかな」
あまり悲しそうな顔もして欲しくないんだが、困ったなと小さな声で続ける。
「最初はどうしたっけな。ボロボロの服を脱がせて風呂に入れてやったんだっけ?」
頬を撫でる手は大きくて、熱いくらいの熱を持っている。
「違うな。風呂は嫌いだった。まるで熱湯をかけられたみたいに怯えたな。水で濡らしたタオルで拭いてやったけど、肌はあまり綺麗にならなくて弱った。やはり風呂に入るしかないと思って、湯に水を足して、一緒に入ったらようやく身体の力を抜いてくれたんだ。埃でくすんだ髪は石鹸をつけても全然泡立たなくて、何回も洗ってやらなきゃならなかった。息継ぎが下手だったな。でも風呂から出たら、髪は綺麗な白銀だし、あちこち怪我の跡が残ってたけど俺が今まで見たどの女より色が白くて美しかった」
それまでずっと、風呂に入ったことなどなかった。初めて湯に触れた時、熱くて火傷すると思ったのだ。私は自分の飼い主について何も知らなかったけれど、拷問の仕方は知っていたから、熱湯を使う方法があることも覚えていた。すぐに殺さなかったのはこのためだと、思わないわけがない。
「次は食事だったかな。警戒してなかなか手をつけなくて困った。毒入りだと疑われたかと思って俺が先に口をつけてもダメで、ようやく口を開いたかと思えば食事を与える理由を聞いてくる。あの時俺は何て言ったんだっけ?そんな良いこと言ったつもりはないんだが、なんでか食べてくれて。何にも言わなかったけどすごいおいしそうな顔して食べるから、もっと食わせたくなった」
あの時言われた言葉を、私はまだ覚えている。

「俺に一人で食べさせる気か?さみしいだろう」
自分を殺しに来た子どもを前に、そう言ったのだ。
「耐性をつけていたから、毒なんて恐れてなかった。食事は仕事の褒美にもらえるもので、何人殺したってあんたが俺の前に並べた程上等な料理は出たことがなかったから、これが自分のものだなんて到底思えなかったんだ」
あの頃より長く伸びた髪に手を入れ、撫でる。あぁ、少し痛んでいる。美しい色なのに勿体ない。
「そうかそうか。俺のために食べてくれたのか」
そうだろうか。首を傾げる。さらりと髪が首に当たった。ぼさぼさに伸びた髪を整えたのも、この男だ。刃物を向けられてじっとしていられたのも、この男だからだった。
いつからそう思い始めたのかなんて思っていないけれど、最初は食事の分だけでも働こうと思ったのだ。それなのに次から次へと与えてくるから、きっと返しきれなくなったんだろう。
私を明るい世界に連れ出してくれたこの人の、役に立ちたいと思うようになっていた。

「あなたは寂しがり屋だから、私を傍に置いてくれたんでしょう?」
「さぁ。どの気持ちが始まりだったかなんて、もう覚えていないよ」
「あなたが王になると言うから、いつでも傍に置いてもらえるように勉強したんです」
「うん、うん。お前は偉いなぁ」
「私が一番、お役に立ちます」
私だって始まりがどの気持ちだったかなんて覚えていない。恩だったかもしれないし、打算だったのかもしれない。それでもこの人の手はいつでも温かかったし、安心できた。私を道具から人間にしたのも、この手だ。
愛だとか恋だとか、この人が腕に抱いた女性と同じことを言うつもりはないけれど、それでも一番近くにいて一番役に立つ存在でありたい。

「おかえり、俺のジャーファル」





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