蛇の死んだ日


私の牙には毒がある。
牙の根本にある腺から出る毒は強く、飼い主が望めばどんな相手にでも噛みつくというのに、私の主はそれを望まない。大人しくベッドにいなさいと私を宥めるのだ。
交易国の外交官に新興国だと侮られ、貿易の話がなかなか進まないのを知っている。文官が商家から賄賂を得ていくつかの条例を成立させようと動いているのを知っている。
解決させるのは簡単だ。この牙で一噛み、してやればいい。
一々会談の場を設けたり、不正の証拠を掴んだり、そういった面倒事を省略できるというのに、主は首を振る。
こんな馬鹿らしいことで煩わされているというのに、理解に苦しむ。
主の寝顔を眺めながら、私はふぅと溜息をついた。

一度寝たらそれこそ襲撃にでも会わない限り、私の主は目覚めない。
まだ朝議の時間には早く、カーテンの向こうからわずかに朝日がさしている。
穏やかな呼吸を繰り返す口元にかかった髪を、肩へと流す。主の日に焼けた肌と比べて、まるで陶器のように青白い私の鱗が嫌に目立つ。
こんなのと共寝するなど、私の主はよくよく変わっている。
蛇とは、嫌われるものだ。
シュルシュルと動く姿だけで怯えられる。毒があるからと恐れられる。
そしてそれは、正しい。
私を拾った主がおかしいのだ。
私の元飼い主の様に、私を使えばいい。あの暗くジメジメとした場所から連れ出してくれた今の主のためならば、私はどんなことでもするのに、肝心の主がそれを嫌うのだ。
寝床を守る仕事しか与えられず、私は少々暇を持て余している。
もっと役に立ちたいし、私はその力をもっているのに。

もどかしい気持ちをどうにかしたくて、割れた舌先でぺろりと頬を舐める。
昨夜は少し暑かったせいか、汗の味がした。
ぺろ、ぺろと口元を、すっと通った鼻筋を、額を、舐めていく。
身じろぎしただけで主は起きない。
ぴたりと身体を寄せても、私の低い体温を気にせず眠り続ける。寝ているせいかいくばか熱い身体に私の熱が馴染んでいく。
気持ちよくて、このまま私も眠ってしまいたかったが、もうすぐ朝議の時間だ。
顔を首筋に近づけ、かぷり、と甘噛みした。
かぷ、かぷと何度か噛めば、ようやく主は瞼を開く。
「あぁ、おはよう。ジャーファル」
毒蛇に噛まれたというのに、なんとも呑気なものだ。もう少し深く噛めば、死んでいたかもしれないといのに。
「起こしてくれたんだな。ありがとう」
いいこ、と頭を撫でられる。
前の飼い主に褒められたことなどあっただろうか。私は誰も殺していないというのに、今の飼い主は私をよく褒める。
そして顔を洗うのにも髪を梳くのにも私を連れて行き、楽しそうに私の身なりを整えるのだ。
どこにも出してもらえず、寝所に侍るだけだというのに。
不思議そうな顔をしているのに気づいたのだろう。かわいくなったと笑みを向けられて、また頭を撫でられた。
私は気味の悪い毒蛇だというのに。
「食事にしよう。あまり腹は減っていないか?まぁ我慢して俺に付き合ってくれ」
何の仕事もしていないのに与えられる温かなスープに、本当に手を付けていいものか悩んでしまう。
「お前が食べないと言うのなら、俺も食べないよ」
それは大変困るので、私は慌ててスプーンを取った。
スープを飲んで、パンをちぎればようやく主も食事を始めた。

食事が終われば、仕事の時間だ。
「いってくる」
額にキスを落とす主に応えるため、するりと首に絡みついて頬にキスをした。
そのまま抱き上げられ、運ばれた先はベッドだ。
私の仕事は今日も留守番らしい。
「頼むから、部屋から出ないでくれよ?」
こくりと頷けば、主は満足げな笑みを浮かべて頭を撫でた。
向けられた背にすがりついて連れて行けとねだりたかったけれど、喋れぬ私はドアが閉じられるまでその背を見続けることしかできなかった。





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